GUESTS COLUMN / ゲストコラム

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【03】病気を治すことはいいことなのか?

札幌秀友会病院 副院長 白崎 修一


 
 

不謹慎なことを言います。
「病気を治すことはいいことなのか?」って。
病気を治し続ける、それが可能になるのであれば、極論を言えば、みんな老衰で死んでいくことになるんです。
 
それなりの年になって、身体が動かなくなって、次第に食事を摂らなくなって、眠る時間が長くなって、それがゆっくりと、何年もかけて進んでゆくのです。みんな、百歳超。ちなみに、細胞のアポトーシスの理論からは人間の寿命は120歳だそうです。
 
百歳でマラソンにでる元気な老人が居る、それはそれでいいでしょう。
でも、皆が百歳までそれほどに元気でいるわけではないのです。
 
私は今58歳ですが、マラソンに出場すると多分、15kmで目の前がブラックアウトになり、25kmでランナーズハイによる多幸感はあるかもしれませんが、30km地点で心停止→救急隊員による蘇生むなしく昇天、となるでしょう。
 
糖尿病は絶対に根絶できません。カロリーオーバーの食生活、飽食の時代は、日本が先進国でいる間は、世界人口が100億人に達するまでいつまでも続きます。100億人というのはある意味、適当ですが、国土が少ない我が国において、これから食事を摂る量が少ない老人が増えつつも、耕作面積の絶対量が狭い国土において、他国からの食料輸入が不可能になるのがそれくらいだろう、という前提でのお話です。
 
高カロリーの食事を摂って、ものすごい高血糖にはならないようにインスリンの自動注入などによって血糖を管理することは至極簡単なことになるでしょうが、数値のコントロールというのは、”異常値にならない”ように調整することです。従って、”やや高血糖”や、”血糖値が高くないまでも動脈硬化”という人はどんどん増えてくるでしょう。
 
となると、百歳でもマラソンを完走できる老人には成りえず、アポトーシスをかろうじて避けて生きながらえる老人を増やすことになるのです。
 
当然のこと、生活するにはそれなりに自由が利かなくなります。歩くことをはじめ、身の回りの生活を不自由なくできるわけではなく、周囲の人にある程度の援助を仰ぐことになります。
 
高血圧だって根絶は無理。
赤ちゃんの血管は柔軟性に富んでいますが、それが高齢になっても続くか?続くわけがありません。輪ゴムが劣化していくのと同様、高齢者の血管はブチブチと切れやすくなっているのです。
血圧は正常上限であっても、血管が破綻することによる疾病は回避できなくなっています。
 
さて、私はなにを言いたいか。
適度に病気になるのは必要になるのではないかということなのです。
 
若くしてガンになってしまったら、
残された人生をなんとか最大限に有意義に生きたいと思うでしょう。周囲の人々は慈悲の思いを持ちながらもきっとやさしく接してくれるはず。
 
脳溢血になったら、
脳出血、脳梗塞と病態は種々ありますが、思った事を表現できない、伝えることができない、身体の一部が動かない、勝手に動いてしまう、といった不自由さに、それまでの人生を反省し、それがその先の生き方に頑張って生きていこうというプラスになるかもしれません。
そして、誰もが均等に等しい医療を受けるのは良いとしても、誰もに積極的な医療は必要ないのでは、ということなのです。
権利は大切です。日本国民として基本的人権は絶対的なものです。
 
でも、病院で病気を発見して、そこに、、、
言葉が見つかりません
今日のこの今の私が感じたこと、それがこの文章なのです。
 
これを読んでいただいて、皆さんのいろいろなご意見をお聞かせいただきたいです。
私の仕事は病気を治すことです。生活の糧としての仕事ですから、治療することに対しては常に前向きに、積極的にやっています。それが義務だと思っています。
 
最近、地域包括ケア病棟の入院患者さんの主治医になることが多くなってきました。
骨折後のリハビリの患者さんだったり、単なるレスパイト、つまり、介護をしている家族が休息をとるために被介護者を病院でお預かりする入院の担当医です。
 
そこで強く感じるようになったことは、患者さんのバックグラウンドをこれまで以上に考慮して治療を進めていく必要性なのです。
患者さんご本人とご家族との関係は多種多様です。とっても良い関係の場合もありますが、多くはなんらかの問題を抱えているというのが実情です。
 
自宅での介護は正直言って大変です。大なり小なり肉体的にも精神的にも負担を感じながらの作業です。介護者は自身の生活のなかで、かなりの部分の時間と労力を取られます。愛情だけで続けられるものではないように思います。介護者の気持ちはよく理解できます。
介護しきれなくなってくると、金銭面での支援も必要になってきます。
 
訪問介護やデイサービス、ショートステイなど、他に介護の援助を求めるには、いくら介護保険が使えるからと言ってもいくばくかのお金がかかります。では施設にでも、となると、良い環境で老後の人生をおくるには、それなりの資金が必要になります。
 
被介護者の年金ですべて賄うことができればそれに越したことはないのでしょうが、年金額が少ない、介護者が年金に依存しているといったケースは少なくありません。
 
肉体的に余裕があり、金銭面での余裕もあるのであれば、気持ちの余裕も持てるでしょうが、どちらかに負担を感じるようになると被介護者との関係は多少なりともまずくなります。
 
極端な例かもしれませんが、老々介護や親子の間での不作為による放置での死亡、果ては殺人事件に至るニュースはほぼ毎日目にするようになりました。
 
お金に余裕がない、介護疲れ、それによって限界を超えてしまった結果なのでしょう。
 
日本国憲法第25条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」とあります。
 
平均寿命は1947年当時の男性50.06歳、女性53.96歳から2016年には男性80.75歳、女性86.99歳まで延びました。 憲法発布当時と比べて国は、社会福祉、社会保障と公衆衛生の向上に努めていることについては間違いはありません。そして、たとえ憲法改正があったとしても、今後も今の路線は大きく変更されることはないでしょう。
 
近親者が病気になったら、なんとかしてあげたい、という気持ちがはたらくものです。
ところが、生きながらえて、かといって自立できなくなって頼られて、心に余裕がなくなってくると、苦痛に感じてしまうこともあるのかな、と思うようになりました。
 
みんなが老衰で死んでいくようになれば、心に余裕がない人がどんどん増えていくような気がするのです。
ただの老衰ならばまだいいけれど、長生きすることで認知症という頭の老化も加わっているのが現状を悪化させているのかもしれません。
生きていてくれるだけで幸せ、というのが理想ですが、もしかしたら、適度に病気になってしまうのも、社会としては幸せなのかもしれません。
 
私たち医療者は、患者にできるだけ最高に近い医療を施します。それが医療者としての使命であり、義務でもあると思います。患者さんに対してアクセルを踏み続けるのが本来の姿でしょうが、場合によってはアクセルを緩めることも必要なのでしょう。でも、私たち自身の考えで勝手にアクセル、ブレーキを操作することは許されないことです。
 
ご家族との間の信頼関係に基づいたインフォームドコンセントの中で、微妙なアクセルワークは許されるものであって欲しい、そのように思います。